Nobuo Hoshino's America Rail Trevelog
 アムトラック西行カーディナル号乗車記
 「アメリカ’ズ・リゾート」から中西部ヘ
  ザ・グリーンブライアー 序文
  グリーンブライアー
 私にとってグリーンブライアーと云う言葉を初めて知ったのは1978年8月のとれいん誌掲載の連載記事「コレクターズ・サロン」でした。とれいん誌発行人の松本謙一氏の解説したチェサピーク&オハイオ鉄道(C&O Chesapeake & Ohio Railway 以後、C&Oと記述)の旅客用蒸気機関車で名作の誉も高い、J-3/3a型式に付けられた型式名がグリーンブライアーでした。それから二十有余年を経て、その形式名の由来となったザ・グリーンブライアーに行く事は当時想像する事は出来ませんでした。
 
  グリーンブライアーと機関車との関係
 何故、グリーンブライアーと云う名前を機関車の形式名を付けたのか、という事を述べる必要が有ります。グリーンブライアーは先輪4、動輪8、従輪4(以後、4-8-4と記述)の高速重貨物列車や高速重旅客列車に使われる車輪配置になっています。この車輪配置の機関車をノーザン・パシフィック鉄道(NP Northern Pacific Railway 以後、NPと記述)が世界で初めて採用しました。ノーザン・パシフィックに因んで、機関車の形式名はノーザン(Northern)と付けられました。新しい軸配置の機関車が製造された場合、最初の形式名が公式の形式名になるので、この軸配置の機関車の公式形式名はノーザンになりました。
 1930年代後半、大恐慌の痛手から回復し始めた米国内の貨物及び旅客の輸送需要が増大しました。その需要に応じる為と生産性の向上の為に、C&Oは4-8-4を導入しました。しかし、ノーザンと云う形式名に重大な問題が有りました。南北戦争の敗戦で痛めつけられた南部諸州はという言葉を忌み嫌いました。南部諸州同盟の本拠地であったバージニア州リッチモンド(Richmond, VA)に本社を置くC&Oにとって、ノーザンと云う形式名をJ-3形式に付与する訳にはゆきませんでした。この為、此の地方や沿線の川の名称でありC&O沿線の南部の温泉リゾート地ウェスト・バージニア州グリーンブライアー郡ホワイト・サルファー・スプリングス(White Sulphur Springs, Greenbrier-County, WV)にあるC&O所有の超高級リゾートホテルであるザ・グリーンブライアー(The Greenbrier)の名をとりJ-3型式に型式名グリーンブライアー(Greenbrier)を付与しました。
 
  ホテルの前には山越えの本線
 このザ・グリーンブライアーの前には旧C&O、現在のCSX複合輸送企業体(CSXT CSX Transportation 以後、CSXTと記述)のイリノイ州シカゴ(Chicago, IL)から大西洋岸のバージニア州ニューポート・ニューズ(Newport News, VA)への本線が敷かれています。この線路の最大の役目はウェスト・バージニア州、ケンタッキー州とオハイオ州に跨るアラパチア炭田の石炭を大西洋岸の港に輸送する事です。この線路はバージニア州クリフトン・フォージ(Clifton Forge, VA)−ウェスト・バージニア州ヒントン(Hinton, WV)間にアレゲニー山地(Allegheny Mtn.)とアラパチア山脈(Appalachian Mtns.)越えの勾配区間を抱えています。このザ・グリーンブライアーの在るウェスト・バージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスは勾配区間の中間に有ります。
 
  全てはアラパチア山脈を越えるため
 C&Oにおける蒸気機関車の歴史と開発思想は如何にしてアラパチア山脈を越えるかという一点に集約されました。C&Oは大恐慌後、地元オハイオ州ライマ(Lima, OH)に在るライマ機関車会社(LIMA Lima Locomotive Works Co. 以後LIMAと記述)から先輪2、動輪8、従輪4(以後、2-8-4と記述)の蒸気機関車(型式名カナワ Kanawha)を導入しました。その結果としてC&Oは輸送コストを低減し、利益率の向上に大きな成果を上げました。C&Oはクリフトン・フォージ−ヒントン間の機関車の大型化に先立って、オハイオ州の平原部を運行する貨物列車の大型化と高速化に対応する為、蒸気機関車T-1型式を1930年にLIMAから導入しました。T-1型式は先輪2、動輪10、従輪4(以後、2-10-4)という巨大機で大径の動輪で高速を出し、10個の動輪が大きな牽引力を発生させます。このT−1型式の成功で、以後LIMAはC&Oの多数の蒸気機関車を製造納入する事になりました。前述したJ-3型式はT-1型式を旅客用機関車にアレンジした形で製造されました。
 
  輸送需要の激増と輸送力の限界
 ナチス・ドイツのポーランド侵攻に因る欧州戦乱の勃発で自由世界の兵器廠となった米国の工業生産高は飛躍的に増加しました。結果として米国内の貨物及び旅客輸送需要も増加しました。しかし、C&Oを含む各鉄道のアラパチア炭田から大西洋岸への線路はアラパチア山脈を越える勾配区間を抱えていました。欧州戦乱勃発時、C&Oはバージニア州クリフトン・フォージ−ウェスト・バージニア州ヒントン間の勾配区間を超える1万トン級の石炭列車を運行するために先輪2、動輪8、動輪8、従輪2(以後、2-8-8-2と記述)の単式連接型蒸気機関車のH-7型を使用していました。このH-7型の欠点として牽引力は充分でしたが最高速度が低い事でした。線路を増やさずに輸送力を増やすためには列車を長くするか、列車運行速度を向上させて単位時間当りの列車運行本数を増やす事しか方法は有りません。この為、輸送力増強には最高速度が低いH-7型は足手まといになっていました。
 
  超巨大機関車アレゲニーの登場
 輸送力増強のため、C&OはLIMAに対してT-1型蒸気機関車を下敷きにした新型機関車の検討を指示しました。この回答としてLIMAはC&Oの路線の特性に合致した全く新しい蒸気機関車を提示しました。これがアレゲニー(Allegheny)の型式名を持つH-8型単式連接型蒸気機関車です。このH-8型は、先輪2、動輪6、動輪6、従輪6(以後、2-6-6-6と記述)という変わった車輪配置になっています。この車輪配置は沿線のただ同然の豊富な石炭を大きな火床で燃やす様になっています。大きな火床は単位時間当りの蒸気発生量を増やしています。単位時間当りの蒸気発生量が多いという事は、シリンダに供給する高圧加熱水蒸気を多くすることが出来ます。高圧の加熱水蒸気を多くすれば、シリンダに供給する蒸気シリンダ内のピストンと動輪のクランクで発生する回転エネルギーが大きくなります。つまりH-8型は大きな火床を採用した為、牽引力と速度を備え持った蒸気機関車であるという事です。1941年に就役したH-8型はJ-3a型式と並ぶC&Oを代表する型式となりました。H-8型の設計の革新性や高性能は瞬く間に45輌の配備という形で現れました。H-8型は折からの戦時輸送の急増に依る石炭列車のみならず軍用貨物列車の増発に運用されました。当時、LIMAは革新性を売り物にしており、その設計思想を受け継いだ一連の機関車群はライマ・スーパー・パワー(Lima Super Power)と呼ばれていました。此のライマ・スーパー・パワー・シリーズを代表する名機はH-8型、J-3型式の後継機のJ-3a型式、サザン・パシフィック鉄道(SP Southern Pacific Lines 以後、SPと記述)GS-1〜5型式です。
 
  鉄道が歴史を変えたホテル
 1869年5月10日に最初の大陸横断鉄道としてネブラスカ州オマハ(Omaha, NE)とカリフォルニア州サクラメント(Sacramento, CA)を結ぶオマハからのユニオン・パシフィック鉄道(UP Union Pacific Railroad 以後、UPと記述)とサクラメントからのセントラル・パシフィック鉄道(CP Central Pacific Railroad 以後、CPと記述)がユタ州プロモントリーで繋がりました。
 カリフォルニアのビッグ4(スタンフォード、クロッカー、ホプキンス、ハンティントン)の一人で鉄道王になったコリス・P・ハンティントン(Collis P. Huntington)は自分のみで手懸けたカリフォルニアの一地域鉄道にしか過ぎないSPとCPを合併させ、更に西海岸から東海岸迄自社線のみで結ぶ野望を達成するためC&O(当時はC&O Chesapeake & Ohio Railroad)の建設に取りかかりました。此の結果、従来の駅馬車とは違う方法で此のザ・グリーンブライアーに行く方法が現れました。最初の大陸横断鉄道の開通から2ヶ月後の1869年6月29日、C&Oは臨時の線路でホワイト・サルファー・スプリングスヘ列車を到達させました。その3日後の7月1日リッチモンドから列車が定期的に運行される様になりました。完全に時代が変わり、ザ・グリーンブライアーは列車で苦労せずに行けるリゾート地になりました。
 C&Oは他の有力鉄道が犇めくワシントンDC〜ニュー・オーリンズ間の線路敷設をあきらめ、アラパチア炭田〜大西洋岸、シカゴ〜首都を結ぶ現実的な方針を選択しました。これに拠り、ハンティントン帝國東端のルイジアナ州ニュー・オーリンズ(New Oreans, LA)に到達する事は出来ず、C&Oはハンティントン帝國の離れ島になりました。これでハンティントンの野望は夢と消え掛かりました。しかし、ハンティントンは野望を捨てた訳ではなく、カリフォルニアで発揮した得意技を駆使して野望を達成しました。野望達成の代償とても高くつきました野望はSPの屋台骨を歪めたばかりか、アチソン・トペーカ&サンタ・フェ鉄道(ATSF Atchison Topeka & Santa Fe Railway 以後、ATSFと記述)のカリフォルニア進出という形でカリフォルニアでのハンティントンの独占体制をも崩壊させる事になりました。西海岸から東海岸迄の自社線も一部は他社に売却する事になりました。とどめはハンティントンが1900年に死ぬとハンティントン帝國そのものが宿敵であるUP救世主となったエドワード・ヘンリー・ハリマン(Edward Henry Harriman)の手に落ちてしまいました。
 
  鉄道間の競争にもなったホテル
 此の時代、各鉄道会社は沿線の名勝地に高級リゾートホテルを建てて旅客を誘致し、鉄道を利用する旅客の増加を図っていました。ATSFフレデリック・ヘンリー・ハーヴィー(Frederick Henry Harvey)と提携して沿線に建てたハーヴィー・ハウス(Harvey House)と呼ばれたレストラン兼ホテルが米国南西部全域にチェーンを拡大する迄に成功しました。
 その後、北隣のカナダで最初の大陸横断鉄道となったカナディアン・パシフィック鉄道(CP Canadian Pacific Railway 以後、CPと記述)が大陸横断鉄道の建設と並行して沿線に続々と高級ホテルを建設して運営しました。此のCPのホテル群はフェアモント・ホテル・チェーン(Fairmont Fairmont Hotels & Resorts)として現在でも営業しています。カナディアン・ロッキーで最も有名なアルバータ州バンフ(Bunff, AL, Canada)のバンフ・スプリングス・ホテル(The Fairmont Banff Springs)を始めとする高級リゾートホテルが知られています。 CPCSXTを凌ぐ複合輸送企業体を形成していました。因みに旧カナディアン航空(Canadian Airlines)はCPの国内航空部門から始まった為、旧カナディアン航空のツーレターコードは鉄道と同じCPを使用していました。
 1910年、ザ・グリーンブライアーは現在のオーナーであるCSXTの中核となったC&Oに買収されました。以後、C&Oザ・グリーンブライアーの設備の拡張を続けました。
 此の旅客誘致手法は、米国の国立公園の開発競争でも使われました。ATSFがフレッド・ハーヴィー社と提携してグランド・キャニオンを、シカゴ・バーリントン&クインシー鉄道(CB&Q Chicago Burlington & Quincy Railroad 以後、CB&Qと記述)UPNPイエロー・ストーンを、グレート・ノーザン鉄道(GN Great Northern Railway 以後、GNと記述)グレーシャーを、ヨセミテ渓谷鉄道(Yosemite Valley Railroad)がヨセミテを手がけました。但し、ヨセミテはマーセド(Marced, CA)でSPATSFの列車からヨセミテ渓谷鉄道の列車に乗り換えていました。
 
  著名人を惹き付ける
 20世紀に入って、ザ・グリーンブライアー質の高いサービスに惹かれて世界中から様々な著名人がザ・グリーンブライアーを訪れるようになりました。1919年、プリンス・オブ・ウェールズ(当時 後のエドワード8世として即位後、愛する女性の為に王冠を譲り、後のウィンザー公となった、現在のプリンス・オブ・ウェールズの大伯父に当たる。)が此処を訪れました。ウィンザー公は此の後も度々此処を訪れました。スポーツ選手も数多く訪れ、1925年には水泳のジョニー・ワイズミューラー(Johnny Weismuller)とバスター・クラッベ(Buster Crabbe)が屋内プールで泳ぎました。ジョニー・ワイズミューラーは後にターザンでハリウッドの映画スターになりました。此処の屋内プールでは後にスゥェーデンの水泳金メダリストになったマーサ・ノレリウス(Martha Norelius)が父親のチャールズ・ノレリウス(Charles Norelius)の指導を受けていました。マーサは競技生活からの引退後、此処の水泳インストラクターになりました。テニスのビル・ティルデン(Bill Tilden)はテニスコートで試合をしました。財界の大立者やその一族も多く訪れました。名前を挙げるとニューヨーク・セントラル鉄道(NYC NewYork Central System)君臨した鉄道界の大先制君主の一族ウィリアム・バンダーヴィルト(William K. Vanderbilt)氏の夫人と、鉄道王の一族ジョセフ・ハリマン(Joseph Harriman)氏の夫人。作家マーク・トゥェーン(Mark Twain)氏の娘。自動車王ヘンリー・フォード(Henry Ford)の息子。デラウェア州ウィルミントン(Wilminton, DE)で火薬製造で事業を始めたフランス移民のE・I・デュ・ポン(Eleuthere Irenee DuPont de Nemours)の曾孫で、火薬製造で財を成し大邸宅を建てたアルフレッド・デュ・ポン(Alfred Irenee Du Pont)の孫娘。ヴォーグ(Vouge)誌やコンデ・ナスト・トラベラー(Conde' Nast Traveler)誌の発刊者でコンデ・ナスト社の創始者のコンデ・ナスト(Conde' Nast)も此処を訪れました。
 1920年代から著名人は数多く訪れていましたが、このことが大恐慌後のザ・グリーンブライアーの経営の一助となりました。ザ・グリーンブライアーは大恐慌前からの著名人の常連客への宣伝活動を行いました。その結果、大恐慌前からの著名人の常連客が仲間を誘って一緒に訪れる様になりました。その中に米国に影響を及ぼす言論人、文化人、歌手、映画俳優、スポーツ選手が含まれるようになりました。名前を挙げると、RCAのデヴィッド・サーノフ(Divid Sarnoff)、ライフ誌発行人のヘンリー・ルーチェ(Henry Luce)、大リーグ(Major Leauge)ニュー・ヨーク・ヤンキース(New York Yankees)の鉄人ルー・ゲーリック(Lou Gehrig Henry Louis Gehrig)とホームラン王べーブ・ルース(Babe Ruth George Herman Ruth, Jr.)、女優のメアリー・ピックフォード(Mary Picford)、男優のエドワード・G・ロビンソン(Edward G. Robinson)、エレノワー・ルーズベルト(Eleanor Rooswvelt)、ジャズの王様ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)、そしてスルーナーと呼ばれハリウッドのスターでもあり、ホワイト・クリスマスの大ベストセラーを持つ生涯現役を貫いた稀代の名歌手ビング・クロスビー(Bing Crosby)です。
 
  旧くからのゴルフ・リゾート
 米国で最も旧いとされるゴルフ倶楽部のオーク・ハースト・リンクス(Oakhurst Links)はザ・グリーンブライアーから数マイル離れた処に在ります。1778年のザ・グリーンブライアーの最初の宿泊施設の開業時から僅か数年後にコースが形作られ、イギリスのセント・アンドリュースゴルフ倶楽部(St.Andrews Golf Club)から遅れること4年の1884年にゴルフ倶楽部が成立しました。
 ザ・グリーンブライアーに於けるゴルフの歴史は1910年に9ホールコースのオープンで始まりました。18ホールコースのオープンは1913年のザ・オールド・ホワイトコース(The Old White Course)で、2番目の18ホールコースのザ・グリーンブライアーコース(The Greenbrier Course)のオープンは1924年でした。球聖ボビー・ジョーンズ(Bobby Jones Robert Tyre Jones, Jr.)は、ザ・グリーンブライアーコースでプレーする最初のゴルファーの1人でした。最初に開設された9ホールコースが18ホールになったのは1962年の事で、拡張を機にザ・ミドウズ・コース(The Meadows Course)と名付けられました。
 1932年、ニュー・ヨーク・ヤンキース(New York Yankees)の鉄人ルー・ゲーリック(Lou Gehrig)が此処を訪れバットをゴルフクラブに持ち替えて、コースを廻りました。
 
  ザ・グリーンブライアーの新人プロゴルファー
 1936年の驚くべき多くのスポーツシーンの話題となった、飛ばし屋のサム・スニード(Sam Snead)がザ・グリーンブライアーの新しいゴルフプロになりました。きっかけはザ・グリーンブライアーの近くで行われたゴルフ・トーナメントに立ち会ったグリーンブライアーのゴルフのマネージャーのフレディー・マーティン(Freddie Martin)が、23歳のスニードの力強いパワフルなドライブを見て驚かされた事でした。
 スニードはバージニアの貧しい農家に生まれ、ホット・スプリングス(Hot Springs, VA)の名門リゾートホテルのザ・ホームステッド(The Homestead)のキャディーからゴルフ人生を始めました。スニードはザ・グリーンブライアーと契約することとなり契約時の報酬が月給$45.00-と食事と客室でした。1937年1月のオークランド・オープンで69-65-67-69というスコアを叩き出し、全米にその名を轟かしました。ス二ードにはスラミン・サミー(Slammin' Sammy)と云う別名が付きました。此が現在に続くザ・グリーンブライアーのゴルフ・リゾートの名声のきっかけとなり。スニードの名声とザ・グリーンブライアーのゴルフ・リゾートの名声が連動して高まってゆくことになりました。
 
  歴史の舞台にもなったホテル
 ザ・グリーンブライアーの歴史も旧く、米国独立宣言発表から僅か2年遅れた1778年に最初の宿泊施設が開業しました。ザ・グリーンブライアーの位置取りが首都ワシントンDCから遠過ぎず近すぎずという好都合な処に在った為、このホテルは様々な歴史の出来事を記憶に留める事になりました。首都ワシントンDCからは歴代の米国大統領が駅馬車や列車でザ・グリーンブライアーを訪れ日々の政治の激務からの心身の疲れを癒しました。
 歴史はずっと下って、イランの首都テヘラン駐在の米国の外交官が444日間の人質生活から解放されてから3ヶ月後の1981年4月、元の人質であったテヘラン駐在の米国の外交官が人質生活の疲れを癒す為に此処を訪れました。
 
  戦争が始まる
 1939年ヒトラー総統の率いるドイツはスターリンの率いるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)と示し合わせてポーランドに侵入したことで欧州動乱、後の第二次世界大戦が始まりました。
 日本は1931年からの中国との戦争が局地戦から全面戦争に拡大したことで戦争を講和して止める事もできず、さりとて単に撤退すると中国での権益を全て喪う危険があり、満洲や蒙古の権益は二度の戦争(日清戦争、日露戦争)で血の犠牲を費やして獲得したものでこれを喪うことは軍部の強硬派や世論の袋叩きに遭ってしまうため撤退することもできず泥沼にはまり込んでしまいました。
 1940年日本はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を封じ込めるためドイツ、ムッソリーニ首相のイタリアと日独伊三国防共協定を締結し、枢軸国の同盟が出来上がりました。此に拠って日本はイギリス、オランダ、フランスとの対立が不可避となりました。
 米国はアジアでの日本の進出を阻止するため、アジアで権益を持つイギリス、中国、オランダと共同して経済封鎖網を形成しました。此の包囲網は各国の頭文字を取ってABCD対日包囲網と呼ばれました。
 中国との戦争が長期戦になった事で資源の乏しい日本は苦しい消耗戦を強いられることになりました。ABCD対日包囲網突破と中国での権益維持の為に、日本はアジアの資源を力ずくで奪取する方針を採りました。当時のアジアでは石油とボーキサイトはオランダ領インドネシア(蘭印)、ゴムと錫はイギリス領マレー半島に有った為、通過地となるフランス領インドシナ半島(仏印)の宗主国であるオランダ、イギリス、フランス、更に中国の蒋介石の率いる国民党政権を援助するアメリカとのとの戦争が不可避となりました。
 1941年12月8日の日本海軍の連合艦隊によるハワイ準州のオワフ島のパール市(Pearl-City, HI)の真珠湾(Pearl Harbor)に在る米国海軍の基地を奇襲した事で米国は太平洋の遥か先の島国との戦争状態に入りました。同時に日本陸軍に依る香港、マレー半島への電撃作戦も開始され全世界が戦争状態となりました。
 
  予期せぬゲスト
 枢軸国との交戦状態となったこの12月8日の奇襲から間もない1941年12月17日米国政府は48時間以内に枢軸国の外交官の首都からの退去命令を出しました。この為、国務省からの依頼でザ・グリーンブライアーは、帰国する枢軸国の外交官と市民にその家族の一時滞在場所となりました。ザ・グリーンブライアーの全従業員は予期せぬゲストの滞在の間、懸念を抱くのも無理はなく、新しい政府の仕事に適応しました。
 秘密裏に第一陣として12月19日17:30に159人のドイツとハンガリーの外交官がザ・グリーンブライアー到着しました。当時に連邦捜査局(FBI Federal Bureau of Investigation)のエージェントが派遣されました。FBIはザ・グリーンブライアーの全従業員の完全な身元調査を実施し、特に米国外出身の従業員には綿密な調査を行いました。FBIはザ・グリーンブライアーの全従業員の指紋押捺と通行証の発行を実施しました。更にメキシコとカナダとの国境警備の国境警備隊が引き抜かれて新しいゲストの警備に当たりました。
 機密性を保持する為と、ゲストが特殊なため国務省からの指示に従い一般客の受け入れを中止しました。又、予期せぬゲストに提供する屋外での娯楽はテニス以外は一切禁止となりました。予期せぬゲストには多くの学齢期の子供たちが含まれていましたので、コテージが教室に転用されました。
 日本の外交官は1941年12月から一山越えた南のバージニア州ホット・スプリングス(Hot Springs, VA)の名門リゾートホテルのザ・ホームステッド(The Homestead)に待機していましたが、1942年5月にザ・グリーンブライアーに移送されて来ました。此の時期が最も多くの枢軸国の外交官が待機していました。
 枢軸国の外交官の最後の出発は1942年7月8日でした。予期せぬゲストがこの間にザ・グリーンブライアーのベルマン、メイド、ポーターからの優秀なサービスに与えたチップの総額は当時の金額で$65,000-でした。
 
  戦争の波に呑み込まれる
 待機していた枢軸国の外交官が帰国した後、ザ・グリーンブライアーには一般客を受け入れましたがそれも6週間のみでした。枢軸国の外交官が滞在している時期から戦時施設を探している米国陸海軍は、温泉の有る此のザ・グリーンブライアーの設備に注目していました。海軍はホテルの部屋と娯楽施設を将兵の休養と回復施設に使う計画を立て、陸軍はザ・グリーンブライアーの全設備を病院に利用する計画を立てました。そして1942年8月ザ・グリーンブライアーは戦争の流れの中で死刑宣告にも受け取れる等しい接収命令を受けました。政府は1942年8月、C&Oに$3,300,000-、ホテル、リゾート設備、7,000エーカーの土地に$4,700,000-をザ・グリーンブライアーへ支払いました。
 戦時設備への徴用を前にした1942年8月30日、ささやかなお別れミントジューレップパーティーが開かれました。パーティーに参加した新聞社の通信員は此の一文を書きました。「パーティーのゲストは人目を憚らず涙にくれ、涙は溢れた。幾度の季節に亘って宿泊客が滞在したここの有名なホテルにパーティーのゲストはパーティーのゲスト達からの最後のさようならを言い、そして上の階では灯りが外に向かって点滅した。」
 ザ・グリーンブライアーは翌日の1942年9月1日から公式に米国陸軍の資産になりました。ザ・グリーンブライアーは二千床のベッドを持つ陸軍病院への転用が急がれました。更に連合軍の対独軍アフリカ軍団との戦闘で死傷者が増えていた事と、傷病兵の病院への期待が転用に拍車を掛けました。
 
  戦争に呑み込まれたのはグリーンブライアーだけでは無かった
 戦争の拡大で枢軸国側の占領地となった欧州やアジアのホテルは接収され、司令部や将兵宿舎に充てられました。香港のペニンシュラ、バンコクのオリエンタルは日本軍に、パリのリッツは独軍の接収を受けました。幸いな事に市街戦の犠牲になることも無く、敗戦に拠り接収が解除されました。枢軸国側でもイタリアは早く降伏したので被害は少なかったのですが、ドイツと日本は戦争が終わるのが遅く、ドイツでは市街戦で、日本では空襲でかなりの数のホテルが犠牲になりました。
 戦争が終わっても敗戦国となった枢軸国側のホテルには塗炭の辛苦が待ちかまえていました。敗戦国には戦勝国に拠る占領が行われました。これに伴って破壊から残ったかなりのホテルやオフィス・ビルが戦勝国に拠る接収の対象となりました。戦勝国でも英国は独軍の度重なる空襲でかなりの被害を受けました。
 ホテルに大切な人材も喪失していました。例外無く新米やベテランのホテルマンも召集令状を受け取り軍に徴用されましたが、その中には戦地で戦病死した者がかなりの数に上りました。又、軍に徴用されなかった者も空襲でかなりの犠牲になりました。戦地で生き残ったホテルマンも直ぐに復員して故国に帰れた訳ではありません。捕虜として抑留され、戦勝国への賠償手段として強制労働に従事する事になりました。帝國ホテルの村上信夫氏(元総料理長、現顧問)は中国戦線で終戦を迎えました。その後ソ連に抑留され、シベリアでの労働に従事した後、復員して帰国後に復職しました。
 空襲で生産手段や輸送手段を喪失したため、必要な物資も欠乏していました。ホテルは接収を受けて自由な営業もできず、資材も占領軍から供給して貰う状態で占領軍の将兵やその関係者の宿舎を運営する事で辛うじて生かされている有様でした。
 
  戦争の終結と世界の情勢
 第二次世界大戦が集結した事で、陸軍病院として傷病の将兵を治療する仕事は大幅に減りました。これに依ってアッシュフォード陸軍病院は役目を終えました。第二次世界大戦の集結に拠る軍事予算の削減という課題に直面した米国政府も接収資産や在庫資産の見直しを行いました。此の理由は使用しない接収資産や在庫資産の維持費用を削減するためです。多額の費用をかけて接収した資産の減価償却費を考えれば勿体ない事ですが、払い続ける維持費用を削減するためには接収資産の見直しを行う必要が有りました。又、在庫資産には有効期限が有り、期限切れの在庫資産の処理には更に莫大な費用が発生するので、容赦無く見直しを行う必要が有りました。
 見直しには他に理由が有りました。連合国は敗戦国を占領して、連合国軍に依る敗戦国の統治を実施する事になりました。此の費用を捻出するためにも接収資産や在庫資産の見直しを行う必要が有りました。欧州では第二次世界大戦中も各国には戦争を継続する為の物資が無く、連合国側の欧州各国は自由世界の工場である米国からの援助で第二次世界大戦に於ける勝利を収める事が出来ました。戦地となった枢軸国を含めた欧州各国は戦争に拠る自国の被害が甚大で、自国の復興のみで手一杯の状態でした。
 連合国各国は戦争後の枠組みの中で自国を有利にするための陣取り合戦を始める訳ですが、連合国側の欧州各国は自国のみでの枢軸国への単独占領が自国の復興で手一杯の状態で出来ず、西部戦線は米国、東部戦線はソ連を中心とした枠組みとなりました。この枠組みが20世紀の終近く迄続きました。
 
  営業再開前夜と名女性デザイナー
 1946年7月30日、アッシュフォード陸軍病院が正式に業務を終了しました。此に伴いアッシュフォード陸軍病院で勤務や入院していた陸軍の将兵は去ってゆきました。1946年12月、C&Oの取締役会長のロバート・R・ヤング(Robert R. Young)が米国政府から$3,300,000-でザ・グリーンブライアーを買い戻しました。ヤングはザ・グリーンブライアーザ・グリーンブライアーの持つアトラクションがC&Oの本線の乗客を惹き付けた事と、戦後になってリゾートホテルへの需要が増える事を信じていました。
 ザ・グリーンブライアーが営業を再開する前に重大な問題が有りました。買い戻したザ・グリーンブライアーは陸軍病院として使われていた為、ホテルとしての体をなしていませんでした。ヤングはオハイオ州クリーブランドのターミナル・タワーに有るC&Oの重役室の改装を手がけた女性デザイナーのドロシー・ドラパー(Dorothy Draper)へザ・グリーンブライアーの内部改装の話を持ち掛けました。
 ドロシー・ドラパーはフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)個人の主治医を務めたジョージ・ドラパー(George Draper)と1912年から1930年迄結婚していました。1920代からドロシーのキャリアが始まりました。1920年代、ニューヨーク州ニューヨーク(New York, NY)のハンプシャー・ハウスの内部装飾を手がけましたが、この時代で女性の手がけた建物の内部装飾で最も大きいものでした。以後、数々のホテルの内部装飾を手掛けました。名前を挙げるとカリフォルニア州サンフランシスコ(San Francisco, CA)のフェアモント(The Fairmont)、ニューヨークのプラザ(The Plaza)とカーライル(The Carlyle)、ワシントンDCのメイフラワー(The Mayflower)、ニューヨーク州サラトガ・スプリングスの(Saratoga Springs, NY)のギデオン・パットナム(The Gideon Patnum)です。ドロシー・ドラパーのホワイト・サルファー・スプリングスの初訪問は1946年12月の曇った日の事でした。ドロシー・ドラパーの打ち出した装飾コンセプトはザ・グリーンブライアー ロマンスとシャクナゲの花(The Greenbrier−Romance and Rhodoendron)でした。ウェスト・バージニアの州花のシャクナゲ(Rhodoendron)は客室の壁紙、土産物の手提げ袋や案内ブックレットの表紙に取り入れられていました。
 ドラパーの注文した改装に使われた材料の主なものは30マイル長の絨毯、45.000ヤード長の布、特注の石楠花の柄も含まれる15,000本の壁紙、34,567個の家具と装飾品です。それ以外の改装の内容は館内の電気配線・給排水管の更新、調理設備の更新と近代化が主なものでした。
 1947年7月1日には病院の設備を転用したザ・グリーンブライアー・クリニック(The Greenbrier Clinic)が発足しましたが、利用客を受け入れたのは更に一年後の事でした。
 
  世紀の大パーティー
 1948年4月、設備の買い戻しと改装に1,240萬弗を超える巨費と1年以上の歳月を掛けたザ・グリーンブライアーの営業が漸く再開出来るようになりました。1948年4月15日、営業再開に先立って営業再開記念パーティーが始まりました。此のパーティーはホワイト・サルファー・スプリングスの歴史の中で最も長く煌めいた行事でした。招待されたゲストは300人以上の著名人ばかりでした。欧州の王侯ではウィンザー公夫妻(Duke and Duchess Windsor)、ハリウッドのスターではビング・クロスビー(Bing Crosby)、新聞王のウイリアム・ランドルフ・ハースト・ジュニア(William Randoiph Hearst, Jr.)、出版界ではマルコム・フォーブス(Malcolm Forbes)とヘンリー・ルース(Henry Luce)、銀行界ではチェース・ナショナル銀行のウィンスロップ・アルドリッチ、米国の名門では食肉のアーマー(Armour)家、化学工業のデュポン(Du Pont)家、ビドル(Biddle)家、ピューリッツアー(Pulizer)家、鉄道のバンダーヴィルト(Vanderbilt)家です。更には全米一のグラマー美女のブレンダ・フラツィエ(Brenda Frazier)とその夫のアメリカンフットボールのスターのジョニー・ケリー(Jonney "Shipwreck" Kelly)、ゴルファーでは言わずと知れたスニード、同期のベン・ホーガン、ジョニー・ブーラ、ヘンリー・コットン、ジョージ・ファジオです。政界ではウェスト・バージニア、バージニア、ニュージャージーの州知事、ケネディ家の夫人(Mrs. Joseph P. Kennedy)と三人の娘(キャサリン Kathleen、パトリシア Patricia、アーニス Eunice)です。ケネディ家の夫人と夫のジョセフ・P・ケネディ(Joseph P. Kennedy)の新婚旅行は1914年10月の事で訪問地は此処ザ・グリーンブライアーでした。
 
  悲劇の王朝に度重なる悲劇
 世紀の大パーティーから一ヶ月後、パーティに参加し、ライフ誌にも写真が掲載されたケネディ家の三人の娘の一人のキャサリン(Kathleen)が飛行機での移動中に消息を絶ちました。1944年のジョセフ・ケネディ・ジュニアの戦死に続く悲劇となりました。悲劇の王朝血塗られた名門と呼ばれたケネディ家の悲劇は此で終わりませんでした。15年後に更に大きな悲劇に見舞われる事になります。ケネディ家の9人の子供たちのうち一人(ジョセフ・ジュニア)戦死、二人(ジョン、ロバート)暗殺、一人(ローズマリー)障害者、一人(キャサリン)行方不明で原因も謎に包まれたものとなりました。
  
  
  ザ・グリーンブライアー 序文 終
 
   一日目へ

This page last updated on Jun 1, 2007
Copyright (C) 1996 Netscape CommunicationsCorporation.
Text (C) Nobuo Hoshino
Photo (C) Nobuo Hoshino